研究概要

細胞は、となりの細胞を「かじる」

私たちの体は、数多くの細胞からできています。細胞はそれぞれが単独で働いているわけではなく、周囲の細胞と情報をやり取りしながら、体の状態を保っています。

細胞同士のコミュニケーションというと、ホルモンやサイトカインと呼ばれる物質を放出し、それを別の細胞が受け取る仕組みがよく知られています。しかし近年、これとは異なる、少し不思議な情報交換の方法が注目されています。

それが、トロゴサイトーシスです。

トロゴサイトーシスでは、ある細胞が別の細胞に接触し、その細胞の表面や一部を、まるで「かじり取る」ように取り込みます。「トロゴ」という言葉は、古代ギリシャ語の「かじる」に由来しています。

細胞を丸ごと飲み込む現象は、ファゴサイトーシスと呼ばれます。これに対してトロゴサイトーシスでは、細胞全体ではなく、その一部分だけが別の細胞へ移動します。移動するものには、細胞膜や細胞表面のタンパク質、ときには細胞内部の成分も含まれます。

ファゴサイトーシスとトロゴサイトーシスの違い。丸ごと飲み込む「りんごを丸ごと食べるイメージ」に対し、一部分だけを取り込む「りんごをひと口だけかじるイメージ」

この「かじり取り」によって、細胞は相手の性質を変えたり、相手から情報を受け取ったりしている可能性があります。つまりトロゴサイトーシスは、これまで十分に知られていなかった、新しい細胞間コミュニケーションの方法なのです。

さまざまな生き物にみられる「かじり取り」

トロゴサイトーシスは、特定の細胞だけにみられる珍しい現象ではありません。

私たちの体を感染症などから守る免疫細胞では、細胞表面にある分子が別の免疫細胞へ移動することがあります。脳の中では、マイクログリアと呼ばれる細胞が、神経細胞の一部を取り込むことがあります。また、赤痢アメーバのような単細胞生物は、ほかの細胞をかじり取りながら組織に侵入することが知られています。

このように、トロゴサイトーシスに似た現象は、免疫、神経、感染症など、一見すると異なる分野で見つかっています。原生生物から私たちのような多細胞生物まで、幅広い生物にみられることから、生物が長い進化の過程で獲得してきた重要な仕組みである可能性があります。

しかし、これまでの研究は、それぞれの分野で別々に進められてきました。そのため、異なる細胞や生物でみられる「かじり取り」が、同じ仕組みで起こっているのか、どのような目的で使われているのかについては、まだ多くの謎が残されています。

トロゴサイトーシスは免疫・神経・感染のさまざまな生命現象に関わり、ナノピペットという共通の解析技術でつながる

「トロゴ生命科学」という新しい研究分野へ

本研究領域では、免疫学、神経科学、寄生虫学、工学の研究者が集まり、トロゴサイトーシスを分野の壁を越えて研究します。

免疫細胞、脳のマイクログリア、赤痢アメーバという異なる研究対象を比較することで、「かじり取り」に共通する仕組みを探ります。同時に、それぞれの細胞が、なぜトロゴサイトーシスを行うのか、それによって周囲の細胞や組織にどのような変化が生じるのかを明らかにします。

私たちが目指しているのは、個々の現象を別々に理解することだけではありません。さまざまな生物や細胞にみられるトロゴサイトーシスを一つの視点から捉え、「かじり取りによって生命活動がどのように調節されているのか」を明らかにすることです。

この新しい研究の枠組みを、私たちはトロゴ生命科学と呼んでいます。

見えない瞬間を捉えるために

トロゴサイトーシスの研究には、大きな難しさがあります。

第一に、トロゴサイトーシスは細胞同士が接触したときに短時間で起こるため、その瞬間を正確に捉えることが簡単ではありません。第二に、ある細胞の成分が別の細胞へ移動するため、観察された物質や遺伝子の情報が、もともとどちらの細胞に由来するのかを区別する必要があります。

本研究領域では、フローサイトメトリーや超解像顕微鏡、1細胞RNAシーケンスなどの技術を組み合わせ、トロゴサイトーシスが起こる前後の細胞の変化を詳しく調べます。

さらに、先端が非常に細いガラス管であるナノピペットを使った新しい解析技術を開発します。ナノピペットを使うと、顕微鏡で細胞を観察しながら、狙った細胞から核や細胞内成分を取り出すことができます。

この技術を活用することで、トロゴサイトーシスが進んでいるまさにその瞬間に、細胞の中でどの遺伝子が働き、どのような変化が起きているのかを調べられるようになると期待されます。

「かじり取り」の理解が未来の生命科学を変える

トロゴサイトーシスは、免疫反応、脳の働き、感染症など、さまざまな生命現象に関係していると考えられます。その基本的な仕組みを理解できれば、これまで別々の現象として扱われてきた生命現象を、共通の原理から説明できるかもしれません。

また、トロゴサイトーシスが必要以上に起こったり、逆にうまく起こらなくなったりすることが、病気につながる可能性もあります。将来的には、炎症性疾患、神経疾患、感染症、がんなどの理解や、新しい治療法の開発につながることも期待されます。

細胞は、なぜほかの細胞をかじるのでしょうか。

何を選んでかじり、かじられた細胞には何が起こるのでしょうか。

そして、この小さな「かじり取り」は、私たちの体や生命全体にどのような影響を与えているのでしょうか。

本研究領域では、こうした問いに分野を越えて挑み、トロゴサイトーシスという未知の生命現象の全体像を明らかにしていきます。